手紙は「序盤定跡」と「終盤定跡」が人間関係にも起こりうることを示す好例だ。どの学校でも,手紙の頭語と結語を子どもたちに教えている。これらはきわめて定型的で儀礼的であり,コンピュータにも簡単に真似できる。MSワードで改行したあとに「Your」と打てば,すぎに黄色い小さなボックスが現れて,そのなかに「Yours truly(敬具)」と書かれている。ここでエンターキーを押せば,自動で補われて全文が入力される仕組みだ。「To who」と打てば,自動で補われて「To whom it may concern(関係各位)」と入力される。「Dear S」と打てば,自動で補われて「Dear Sir or Madam(拝啓)」が,「Cord」と打てば自動で補われて「Cordially(敬具)」が入力される,といった具合である。
学校では,このような「序盤定跡」と「終盤定跡」を一字一句教え込まれる。ところが社会に出ると——意識的かどうかはともかく——,言外の意味や文脈や流行について,微妙な傾向や兆候に耳を澄ませることになる。僕は子どもの頃,「What’s up(やあ元気)」というあいさつが苦手だった。他人の真似をしているだけで,不自然だし,本物ではない——このあいさつを口にするときは,いつも心のなかで引用符のようなものをつけていた——ところが,やがて「Hi(やあ)」と同じように自然に言えるようになっていた。それから数年後,僕の両親も同じ経験をした。両親が最初に「What’s up?」と言いはじめたとき,僕には2人が「流行に乗る」ために涙ぐましい努力をしていると思えたが,次第にほとんど気にならなくなった。僕の中学時代には,「What’s up」を省略した「What up」や「Sup」がそれまで流行していたあいさつに代わってクールな同級生のあいだで広まると思われたが,そうはならなかった。大学や大学院に進学して,形式的でありながらも形式張らない,下手でありながらも対等という微妙なメールを教授たちと交換するようになると,僕は直観的に「Talk to you soon(近いうちに話しましょう)」という結語を使っていたが,そのうちにこれでは返信を催促しているのではないかと気になりはじめ,失礼な言い方かもしれないと思えてきた。僕は他人のメールを見て,それを真似して「Best(では)」という結語をすぐに使いはじめたが,数か月もすると,言葉が短すぎると感じはじめた。やがて,「All the best(ではごきげんよう)」という言葉に切り替えて,最近ではこれが僕の定番になっている。礼儀作法はどこかファッションに似ている。最先端に追いつこうと思えばきりがないのだ。
ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.157-159
PR