言うまでもなく,ゲームがどのようにプレイされるかは得点の記録方法によってある程度決まる。たとえばアシストを評価して集計するスポーツ(アイスホッケーでは,得点者の前にパックに触れた最後の2人の選手も評価される)では,どれも選手同士の団結力が強く,チーム精神が高いように思える。
ところが,中高生がおこなうコミュニケーションの「ゲーム」——すなわちディベート——には,会話をゼロ和の対決にしているものがあまりに多いことを,僕は残念に思っている。ゼロ和モードの対決的会話では,他の人の主張を弱めることが自分の主張を強めることになる。おまけに,アメリカで弁証やディベート,意見の相違を言い表すために使われている比喩表現は,ほとんどが軍事用語である。供述を擁護(ディフェンド)する,論拠を攻撃(アタック)する,控えめな主張に後退(フォール・バック)する,告訴に対して反訴(カウンター)で応じる。だが同時に,会話とは協調であり,即興であり,相手と息を合わせて真実に突き進むものであることも多い——激突(デュエル)というよりも二重奏(デュエット)なのだ。英語の比喩表現と子どもたちの課外活動を見直して,会話は協調的なものであると学べる機会を与えてみてはいかがだろうか。
ブライアン・クリスチャン 吉田晋治(訳) (2012). 機械より人間らしくなれるか:AIとの対話が,人間でいることの意味を教えてくれる 草思社 pp.242-243
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