教育を「中枢神経回路を構築する過程」とみる態度は,民主主義的教育には不可欠な次のことを見すごしてしまう可能性がある。
たとえば,教員の教え方やテキストの問題。教育プログラムを生徒個々人に合わせて柔軟に変えたり見直したりすべきこと。何を学ばせるかはその生徒の文化的背景や社会環境によって変わってくること。学びやすい環境や人間関係を構築すること。学習が実社会とのつながりによって動機づけされるべきこと。学ぶ目的と内容の決定に生徒自身を参画させるべきこと。一般教育が個人の自律性を養成するものである限り,知識の獲得や価値の習得と同時にそれに対する批判的態度を身につけさせるべきこと。知を個人の専有物とは考えずに,共同で制作し共有するものと考えること。学ぶ意欲は問題解決にこそあり知識を注入されることにはないこと。教育自身が現実の問題解決に貢献しなければならないこと---。
民主主義的な教育哲学がこれまで培ってきたこれらの理念に対する考慮は,先の脳科学的な教育観に見出せるだろうか。
脳テクノロジーの教育への応用そのものは,批判すべきことではない。しかし管理主義的な発想から生み出された脳テクノロジーが心理主義に陥ることは必然である。とくに,欧米ではなく,日本の教育システムの中に脳テクノロジーが導入されたときには,社会のために個人を教育するといった復古的な教育観を助長する可能性が高いように思われてならない。新しいテクノロジーは,古くさい考えを実現する手段を与えてしまうだろう。
河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.206-207.
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