大学側(特に国立大)の事情は次のようなものだった。
国立大では1950年代までは論文入試が普通だった。戦前の旧帝大時代と同じである。しかし,60年代に受験者数が急増しそれが不可能になり,客観テストが一般化する。これは大学の「大衆化」にともなう避けがたい変化だった。
これは単なる量的な問題だけではなく,大学に押し寄せる学生の中の「どんぐりの背比べ」状態の部分に序列を付ける上でも,その客観性の保証の上で優れていたのである。
京大,東工大で当時出題の経験を持つ永井道雄は「高校の教科書を詳細に読み,なるべく高校教育の線にそった出題をすることが可能であった」と述べている。それが変わったのは,受験戦争がつぎの段階に入ったからだ。1つの大学が出題する問題の数は巨大になり,それが受験専門の出版社の問題集にも収められていく。そこで,過去に出題されていない,新しくすぐれた問題を作成することが困難になった。こうして「難問・奇問」が増えることになったのだ。
ここでの変化の核心は,大学入試が高校時代の学習の教育評価の側面よりも,選抜に重きをおくようになったことだ。
中井浩一 (2007). 大学入試の戦後史:受験地獄から全入時代へ 中央公論新社 pp.208-209
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