「自分の見たものがすべてだ」となれば,つじつまは合わせやすく,認知も容易になる。そうなれば,私たちはそのストーリーを真実と受け止めやすい。速い思考ができるのも,複雑な世界の中で部分的な情報に意味づけできるのも,このためである。たいていは,私たちがこしらえる整合的なストーリーは現実にかなり近く,これに頼ってもまずまず妥当な行動をとることができる。だがその一方で,判断と選択に影響をおよぼすバイアスはきわめて多種多様であり,「見たものがすべて」という習性がその要因となっていることは,言っておかなかればならない。以下に,主なものを挙げておこう。
・自信過剰——「自分の見たものがすべてだ」という態度うかがわれる通り,手持ちの情報の量や質は主観的な自信とは無関係である。自信を裏付けるのは,筋の通った説明がつくかどうかであり,ほとんど何も見ていなくても,もっともらしい説明ができれば人々は自信たっぷりになる。こうしたわけで,判断に必須の情報が欠けていても,それに気づかない例があとを経たない。まさしく「自分の見たものがすべてだ」と考えてしまう。そのうえ私たちの連想マシンは,一貫性のある活性化パターンをよしとし,疑いや両義性を排除しようとする。
・フレーミング効果——同じ情報も,提示の仕方がちがうだけで,ちがう感情をかき立てることが多い。同じことを言っているにもかかわらず,「手術1カ月後の生存率は90%です」のほうが「手術1カ月後の死亡率は10%です」より心強く感じる。同様に,冷凍肉に「90%無脂肪」と表示してあったら,「脂肪含有率10%」よりダイエットによさそうに感じる。両者が同じ意味であることはすぐにわかるはずだが,たいていの人は表示されている通りにしか見ない。「見たものがすべて」なのである。
・基準率の無視——「図書館司書のスティーブ」問題を思い出してほしい。几帳面でもの静かでこまかいことにこだわり,よく図書館司書と見なされる,あのスティーブである。際立って特徴的な人物描写に接すると,こういうことが起きやすい。図書館司書より農業従事者のほうがはるかに数が多いことを知っているにもかかわらず,この文章を初めて読んだときには統計的な事実など考えもしない。「見たものがすべて」になってしまう。
ダニエル・カーネマン (2012). ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?(上) 早川書房 pp.130-132
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