心理学の学問内容が不十分で不確実に見えるのは,歴史が浅いからではない(いま述べたように浅くなどない)。それは,だれもがもつ,けれどほかの人間は直接見ることのできない「心」というものをあつかうからだ。物質のようなハードなものをあつかうのではないからなのだ。これは,心理学の本質であり,宿命である。心理学がこれから途方もない年月研究を積み重ねて行っても,この点は変わりようがない。
では,そうした「心」を心理学ではどのようにあつかうのか。オーソドックスには,言語的反応や行動や生理的な反応を通してである。行動や反応のデータから,心のなかで,脳のなかで,体のなかでどんなことが起こっているかを推測する。つまり,心理学とは間接科学である。このことを言うのに,かつては,心や脳や体を,ものが出入りするが,なかを覗くことはできない「ブラックボックス」にたとえていたことがある。つまり,入っていったものと出てきたものとの関係(入出力関係)から「ブラックボックス」のなかでなにが行われているかを推測するわけだ。いまなら脳のなかで起こっているプロセスを探るということになる。
ここで問題なのは,この推測が十分な正確さをもって行うこともあるし(当然そうせねばならない),いいかげんに行うこともできるということだ(心理学者を自称するとんでもない連中の心理ゲームがこれにあたる)。心理学が客観性を備えた自然科学のようにも見え,どこかしらウサン臭さも残しているのは,間接科学のもつ宿命にほかならない。
鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.211
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