「そんなものは現場で……」という発言には,2つの問題が内包されている。
1つは,その「現場」というのが,まさに上意下達のコミュニケーションで成り立っている従来型の組織だという点。たしかにそのようなコミュニケーションは,現場で無理矢理学んでいくしかない類のものだったのだろう。しかし,いま求められているのは,対等な人間関係の中で,いかに合意を形成していくかといった能力なのだから,これはやはり教育の中で,ある程度きちんと体系的に身につけさせていく必要がある。
もう1点は,やはり時代の変化という問題だ。
いま,医者の卵,たとえば25歳くらいになっても,身近な人の死を1度も経験していないという学生は珍しくない。祖父,祖母が亡くなっても,一緒に暮らしていたかどうかによって感じ方も大きく違うだろう。
身近な人の死を一度も経験したこともなく医者や看護師になるというのは,一般市民からすれば,たしかに不安なことだ。そんなことで患者や家族の気持ちがわかるのだろうかと思ってしまう。ではしかし,その学生を教育する立場の者が,「身近な人の死を経験もせずに医者なんかなれるか!とっとと経験して来い」と言えるだろうか。いったい,この体験の欠如を,学生個人の責任に帰せるのだろうか。
「現場で云々」という発言は,実はこの「とっとと経験して来い」という無茶な注文と同質なのだ。こうして時代が変わった以上,あるいは,こういった少子化,核家族化の社会を作ってしまった以上,私たちは,これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会教育の機能や慣習を,公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている。
平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 331-349/2130(Kindle)
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