人間は何かの行為をするときに,必ず無駄な動きが入る。たとえばコップをつかもうとするときに,最初からきちんとコップをつかむのではなく,手前で躊躇したり,一呼吸置いたりといった行為が挿入される。こういった無駄な動きを,認知心理学の世界ではマイクロスリップと呼ぶそうだ。
すぐれた俳優もまた,この無駄な動き,マイクロスリップを,演技の中に適切に入れている。要するに私たちが,「あの俳優はうまい,あの俳優はへただ」と感じる要素の1つに,この無駄な動きの挿入の度合い(量とタイミング)があるということがわかってきた。この無駄な動きは,多すぎても少なすぎてもいけない。うまい(と言われる)俳優は,これを無意識にコントロールしているのだろう。
人間は誰しも,演技をしようとすれば緊張する。この緊張が,マイクロスリップを過度にしたり,あるいはマイクロスリップを消してしまうことになる。
もう1点,研究の過程でわかってきたことは,この無駄な動きは,練習を繰り返すうちに少なくなっていく(埋没していく)という点だ。だから演劇の場合,稽古を続けていると演出家から,「なんだか最初の頃の方がよかったなぁ」と言われることがままある。
プロの俳優は,同じ舞台を50回,100回とこなさなければならない。しかし演技を続ければ続けるほど,動作は安定するが,そこから無駄な動きがそぎ落とされ,結果として新鮮味が薄れていく。もちろん,こういった演技の摩耗から逃れられる人もいる。世間は,それを「天才」と呼ぶ。
平田オリザ (2012). わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か 講談社 555-564/2130(Kindle)
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