まず,なんらかの主張をする際には,主張する側が根拠を提示しなければならないという点だ。ある主張を信じない人たちは,その主張が間違いであることを証明する義務などない。例えば,地球のまわりをティーポットが回っていないことをちゃんと証明することは私にはできないが,回っているときみが主張するからといって,回っていないことを私が証明する必要はない。万が一回っているときみが信じていて,私にも同じことを信じさせたいなら,証明するのはきみの仕事だ。私はおそらく,「回っているって直観でわかっている。だから信じているんだ」という説明よりもまともな証拠を要求するだろう。私の言っていることが間違っていると思うなら,無いものを証明してみてくれ。そんなことが不可能なことは,きみにもすぐにわかるだろう。
きみの家に緑色のねずみがいると,私がきみに信じさせたがっているとしよう。そのねずみを見つけ出し,きみに見せるのは私の仕事だ。緑色のねずみなどいないことをきみが証明するのは,どうやったって不可能だ。緑色のねずみを探し回り,家の中の物をすべて外に出しても,ねずみはきみがまだ見ていない場所に隠れているかもしれない。緑色のねずみが家の中にいると人に言われたからではなく,そういうねずみがいるという確かな証拠が得られたときにはじめてねずみの存在を信じる人が,“そんなねずみはいないだろう”と予測したり,“いるという証拠を見せてくれ”と要求することは,心が狭いわけではない。健康的な懐疑心だ。突拍子もないことを主張する,その現実的な証拠を見せてくれ。そうすれば信じるから。
ダレン・ブラウン メンタリストDaiGo(訳) (2013). メンタリズムの罠 扶桑社 pp.358-359
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