そもそも5人は,メジャーなアイドルとしては例のないほど,声も,歌も,背丈も,性格(キャラ)も,踊り方さえも,バラバラで,むしろそれを強調してきた。この個性差に応じてまた,各メンバーを応援する(推す)ファンたちの好みも分かれる。さらにそれら多様なメンバーたちが,多様な楽曲,ダンス,演出を繰り広げる。その組み合わせの可能性たるや,万華鏡のごとく無限大といってよい。
かくしてファンは,きわめて多様で雑多なももクロの中から,自分の好みに合った側面のみに注目し,それを楽しむことができる。しかもファンは,ももクロにたいして強い感情的な一体感をもつことが多い。その結果,互いに相容れない通約不可能な<私だけのももクロ>像が,ファンの数だけ存在する事態になりやすい。
重要なのは,それら<私だけのももクロ>像は,いずれも正しいことである。各々,ももクロの汲みつくせない多様性の全体を,少しずつ部分的に写し出したものなのだから。
一般に現代日本では,音楽等にかんする人びとの好みが,多様化し細分化し,オタク的・排他的な「島宇宙」(宮台真司氏)と化す傾向が強い。もはやかつてのように,国民の誰もが同じ大スターを好むことはない。各人は自分の好きなものだけを追求し,ほかのジャンルやアーティストにはまったく無関心というわけだ。そのような状況にあってなお,ももクロが多様なファン層を獲得し,国民的現象にまでなり得たのは,ももクロ自体の中に,多様な島宇宙を包摂できる,<わけのわからない>雑多な多様性が併存するからに違いない。
安西信一 (2013). ももクロの美学:<わけのわからなさ>の秘密 廣済堂出版 pp.16-17
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