セクハラ男たちが示す共通の反応は,これまで許されてきたことが許されなくなってしまう,既得権喪失への条件反射に似た怒りである。そして,非難されればされるほど,自らの思い描いたストーリーが思い通りに運ばなかったり,訴えられたりしたことへの苛立ちとなって,男たちの内部にくすぶり続けることになる。
それは加害者男性がよく使う,幾つかの苦し紛れの言い訳によく示されている。「彼女にもその気があったのではないかと思った」とか,「お互いに,意気投合して……」「彼女も同意していると思った」などという言い方がそれである。そんなとき男たちは,「それなのに,なぜ……」という疑問を抱え込んだまま立ち尽くしているのである。
セクシャル・ハラスメントとして訴えられ,あるいは告発されている以上,相手は明らかに合意はしていなかったということになる。それにもかかわらず,「あれは間違いなく合意だった」と繰り返し,相手から否定されてもまだ,「合意だったはずだ……」と男性はつぶやき続けている。
こうして繰り返し現れるセクハラ男たちに共通していることは,セクハラ問題がもはや言い訳不要な“女性問題”ではなく,確実に説明が必要な“男性問題”になってきているということへの認識を決定的に欠いていることである。
つまり,彼らは依然として,セクハラは女性の側に問題があって,その落ち度を言い立てれば,それでことが済むと考えているのである。そこまで極端ではないとしても,ありとあらゆる女性の仕種を強引に合意と解釈しようとする,困った習性を身につけてしまっている。だから過剰にOKサインを読み込んでしまい,「了解していると思った」という言い分にしがみつこうとしているのである。
金子雅臣 (2006). 壊れる男たち 岩波書店 pp.188-189
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