言論の自由の基本的な原則の1つに,政府は国民をして無理に語らしめることはできないというものがある。
第二次世界大戦中,いくつかの州当局は,国旗に向かって敬礼し,忠誠の誓いを唱えることで1日を開始するよう,生徒に要求するようになった。そんな時代のウェストバージニア州で,エホバの証人に属していたある生徒が,自分の宗教的な信念に反するという理由によって忠誠の誓いを唱えることを拒否したため,学校は彼を停学にした。
先生の強要を無効とする最高裁判判決についてのロバート・ジャクソン判事の次の言葉は,言論の自由についての法的見解のなかでももっとも有名なものの1つに数えられている。「合衆国憲法という星座のなかに,核になる恒星が存在するのなら,それは<政治,ナショナリズム,宗教,あるいはその他の何らかの意見に関することについて,何が正統たるべきかを規定したり,それに関わる信念を言葉や行動によって告白するよう市民に強要したりすることは,高官であろうが下級職であろうが,いかなる政府役人にも認められない>という表明である」
選択の意味するところについて最高裁がそれとは異なる見解をもっていたなら,判決はまったく逆になっていたかもしれない。
当時活躍していた,学者肌の判事フェリックス・フランクファーターは,「誰も子どもを公立学校に通わせるよう強要していない」として最高裁判決に異議を唱えている。彼はまた,「学校が忠誠の誓いを唱えることを通学という特権の条件にしたいのなら,それは認められてしかるべきである」,あるいは「子どもはいつでも公立学校の代わりに私立の学校に通える」とも述べている。
要するに,フランクファーターは次のように主張しているのだ。最高裁はラムソンのケースにおけるホームズ判事の論法を採用すべきだと。つまりラムソンが職場にきた時に選択をしたのと同様,子どもは登校したときに選択したのだと。
ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.67-69
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