故殺[第三級殺人と呼ばれる場合もある]は故意でもありうるし(故意そのものは意図されていたとしても,相手を死に至らしめることがその意図だったわけではないケース),非故意の場合もある(自分の行動が誰かの死につながるかどうかの配慮を「まったくの不注意によって欠いたまま」行動したケース)。
ただしこれらの原則は司法管轄区域によっていくぶんかは変わるが,ポイントは理解できるはずだ。いずれにしても基準はどうあれ,判決は被告が「本当にそれを意図していたかどうか」によって決まる場合が多い。
私たちの感覚では,より意図的であればあるほど,その行為を実行した人に,より重い責任を負わせるべきだととらえている。そしてこの感覚は法に反映されている。したがって慣習法の道徳的な直観は,脳についての最新の理解と矛盾しない。つまり犯罪実行の選択に,より高度な脳の部位が関与していれば,被告はより罪が重いとみなされるのだ。脳の機能にたとえると,「殺意」とは,犯人の前頭前皮質が関与していることを意味し,大脳基底核は,せいぜい故殺が可能にすぎない。
ケント・グリーンフィールド 高橋洋(訳) (2012). <選択>の神話:自由の国アメリカの不自由 紀伊國屋書店 pp.88
PR