一言注意しておけば,戦争中は,特攻隊のように,人間が爆弾を直接操縦するという「野蛮な」,精神主義の固まりのような戦術が採用されたり,竹槍で本土防衛をしようとまじめに考えられたりするという哀しい話だけが語り継がれ,また敗戦後も,日本は「科学技術」をおろそかにしていたから敗けたのだ,結局は「科学戦」の敗北だった,という言い方がはやったために,戦争遂行に当たって,日本は,科学を無視したと考えるような誤解が今まで漠然と続いています。しかしこれは非常に大きなまちがいです。
戦争中の日本は,その国策からして,戦後のあの高度成長期の理工科ブームにまさるとも劣らないほどの,科学技術振興政策をとっていました。理工科の学生は,畳用もあと回しでしたし,大学でも研究費は潤沢でした。子どもたちも「科学する心」の開発をしきりにそそのかされ,『譚海』などというちょっとハイ・ブラウな少年雑誌には,高垣眸や南洋一郎,山中峯太郎などという作家たちの冒険小説に交じって,海野十三の空想科学小説が評判でした。そのころはSF,つまりサイエンス・フィクションなどというしゃれた呼名はありませんでしたが,今から思えば海野十三の作品は,まさしくかなり高度なSFにほかなりませんでした。
そういう雰囲気の中で少年たちが,不可能と思われることをつぎつぎに可能にして行く「科学者」,絶対確実な客観性の世界に一歩一歩近づいていく「科学者」なるものに,あこがれと尊敬の念を抱いたのは当然だったでしょう。
村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.14-15
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