もちろんそのときにも触れましたが,昔の法則が新しい法則に書き換えられる際には,前者が後者によってそっくりそのまま「包み込ま」れるような形をとることは,むしろ稀なことかもしれません。科学の「進歩」ということはまた,過去の旧い法則や理論が,まちがった,正しくないものとして捨てられ,新しいより正しい,より真理に近い法則や理論によって置き換えられることをも言う,と考えられています。では,先のような認識論的な立場から見て,そのような事態はどう説明されるのでしょうか。
もし人間が穴の開いたバケツであって,そのバケツには,外から情報が流れ込んで溜まるだけであり,その溜まって行く過程の中で,すでにくわしくご紹介したあの機能と演繹のサイクルが繰り返されていくのなら,どこに,「まちがった」法則や理論が得られてくる余地があるのかが,うまく説明される必要があるでしょう。なぜなら,だれが,どこで,いつ観察しても外界(つまり自然)は変わらない(客観的な)世界である限り,流れ込んでくるデータはいつでも「同じ」であり,「同じ」データからはいつでも同じ法則が帰納されてよいのではないでしょうか。
この問いに対する,常識的な考え方の立場からの答えの一部はすでに述べたことのなかにあります。つまり,かつてそういうまちがった,正しくない法則が帰納されたのは,データが不足していた,という解釈です。
村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.85-86
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