けれども「酸素の発見」とはいったいどういうことなのでしょう。例えば,何か還元反応が起こって,水溶液のなかにぶくぶくと泡が立ったとします。その現象そのものが,突然18世紀に出てきたわけではありますまい。そんな現象は,中世にも古代にも,ヨーロッパだけでなく,中国にもインドにも,いつでもどこでも起こっていたに違いありません。しかし,ではその現象を目撃した,その泡を発見した最初の人が「酸素の発見者」なのでしょうか。もしそうだったら,「酸素の発見者」は,ラヴォアジェやプリーストリはおろか,アリストテレスやプラトンでもなく,日本の無名の刀鍛冶だって,あるいは中国の錬丹術師でも,あるいは極端にいえば,もしかしたらネアンデルタール人だって「酸素の発見者」になり得るではありませんか。
明らかにそれではおかしい。「酸素の発見」とは,酸素の気泡を目撃したこととはまったく違います。ある機能を果たしている気体として見たときに,初めて,それは酸素の発見になるのです。ある人が,視野のなかのある部分に「酸素を見る」こと,「ここに酸素があります」と言えることは,ある視覚刺激の束をその人が受け取ることとはまったく違うのです。そして,「ここに酸素があります」という「事実」は,明白に,そこに前提されている酸化=還元の理論によって,初めて「事実」たる資格を得るのです。このように考えてみれば,あの同時発見がなぜ起こるか,ということは多少わかりやすくなると思います。
村上陽一郎 (1979). 新しい科学論:「事実」は理論をたおせるか 講談社 pp.179-180
PR