エリザベス1世の時代からヨーロッパでは,ビーヴァーの内毛を素材とした最高級フェルト帽子(ビーヴァー・ハット)が,ステータス・シンボルとして絶大な人気を集めた。王侯貴族や新興のジェントルマン,さらに軍人,僧侶までもが,さまざまなスタイルに加工されたビーヴァー・ハットを競って着用したのである(Lawson, 1943, pp.1-8; Grant, 1989; 木村, 2002, pp.16-25)。最大のビーヴァー生息地である北米で,最初の毛皮植民地ヌーヴェル・フランスを1603年に建設したのは,フランスだった。「百人会社」や「アピタン会社」が毛皮の交易独占を認められ,ヒューロン族を主要な交易相手に,貴重なビーヴァー毛皮をフランスへ送り出したのである(Rich, 1967, pp.15-18)。しかし会社組織に属さず,先住民と直接に交易する多くの独立交易社(「森を走る人々」と呼ばれた)も生まれ,その中にピエール・E・ラディソンとメダール・S・デ・グロセリエという義兄弟がいた。2人は1659年にスペリオル湖畔で越冬し,北のハドソン湾こそビーヴァーの宝庫であるとの情報をクリー族から聞きつける。2人はこの情報をすぐヌーヴェル・フランス総則やフランス本国に伝え,モントリオールではなくハドソン湾を毛皮交易の拠点とするよう進言した。だが進言はまったく無視され,グロセリエは不法交易の咎で東国の憂き目にさえあった。
憤慨した2人は,宿敵イギリスに情報を売り渡そうと決意する。彼らは1665年に渡英し,国王チャールズ2世に拝謁することができた。イギリスにとってハドソン湾は,偉大な探検家ヘンリー・ハドソンが1622年に乗組員の反乱で氷海に置き去りにされた悲劇の海だったが,国王はフランスを出しぬいて毛皮資源を奪取する計画に関心をそそられた。側近の廷臣で,ハドソン湾の毛皮に魅了されたのが,国王の従兄弟にあたるライン・パラティン伯のバヴァリア公ルパート王子である。ボヘミア女王の息子として生まれた彼は,清教徒革命では伯父のチャールズ1世のためフランス軍を率いて革命軍と戦った。王政復古後にはイギリス海軍大臣となり,1672年からの英蘭戦争では海軍提督をつとめている。本来ビジネスの人ではなかった彼に,ハドソン湾への投資を説得したのは,彼の個人秘書で財政顧問だったジェイムズ・ヘイズだった。宮廷とシティ金融界の双方に通じていたヘイズは,後にハドソン湾会社の実質的な支配者となる。ルパート王子は他に6人の出資者を募り,68年に2隻の交易船をハドソン湾の南端にくびれ込むジェイムズ湾に無事到達した。湾に流れこむルパート川の河口で越冬したノンサッチ号は,先住民と予想以上の交易を行い,ロンドンに持ち帰った毛皮は競売で1379ポンドの売上を記録した。この成功を受け,70年5月2日にはチャールズ2世から特許状が下賜され,ハドソン湾会社が誕生したのである。
木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.14-15
PR