地の果てのハドソン湾で働こうとするイギリス人は少なかったから,初期の労働者の多くは,ロンドンの失業者から引きぬかれている。道徳的な腐敗で悪名高い彼らは,会社が求める規律になじもうとはしなかった。早くも1682年に総督ジョン・ニクソンは本社に宛て,イギリスから送られてくる労働者が大酒飲みの荒くれ者ばかりだと指摘し,堕落に染まっていない純朴な田舎の若者を派遣するよう求めている(HBRS, VIII, p.250)。解決策として導入されたのが,年季奉公制度(アプレンティス)だった。この制度のもとで,14歳ほどの少年が7年後の年季奉公契約を結び,下級労働者としてハドソン湾に送られるようになる。スコットランドの北に浮かぶオークニー諸島が,絶好の労働者供給源となった。零細な漁業と農業に依存していた島の少年たちは,ハドソン湾での過酷な自然と労働によく適応した。「オーケイディアン」と呼ばれた彼らは,やがてハドソン湾で働く労働力の4分の3をも占める最大の民族グループとなる(Van Kirk, 1980, pp.10-11; Williams, 1983, pp.25, 40)。
木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.51
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