ラッコはもともとカムチャッカ半島沿岸に多数生息していたが,中国市場で高価に売れることが判明して以来,乱獲のため半島部では急減していた。ロシアは新たなラッコ生息地を求め,一方ではクリル(千島)列島から蝦夷へ,他方ではアリューシャン諸島からベーリング海峡を渡ってアラスカへ進出し始める。彼らはアラスカ湾のコディアック島に基地を設け,ここが北米大陸で最初の狩猟基地となった。ロシアが1743−1800年の間に100回以上の航海で取得したラッコ毛皮の販売額は800万銀ルーブル以上にもなり,「柔らかな黄金」としての評価を確立した(Makarova, 1975, pp.209-217)。清朝は1727年のキャフタ条約で,ロシアにバイカル湖の南に位置するキャフタ経由での貿易を許可しており,アラスカで取得された毛皮は中継港オホーツクから陸路でヤクーツクへ,そこから船でレナ川をさかのぼってイルクーツクへ,さらに国境の町キャフタまで4500キロの距離を運ばれ,さらに隊商のラクダの背に乗せられて北京へ送られた(Gibson, 1980, p.221; Lower, 1978, p.33)。
木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.105-106
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