クックの到来からしばらくの間,ラッコはきわめて豊富だった。1780年代後半には1シーズン(3−8月)で2500枚のラッコを入手するのは容易で,87年にあるアメリカ船は,クイーン・シャーロット諸島で半時間で300枚を入手している。92年にはアメリカの交易船数は7隻に増え,1801年には20隻のピークに達した。前出の図15が示すように,以後のアメリカ船の来航数は5−13隻の間を上下し,1830年代にはほぼ消滅している。アメリカによる最初の交易参入からわずか13年での「急激なラッシュと,迅速なピーク」がラッコ交易の顕著な特徴であり,原因は何よりもラッコの乱獲と,毛皮価格の上昇(交易船の利潤減少)にあった。ラッコは年に1頭しか出産せず,クロテンやビーヴァーよりも繁殖率が低い。母ラッコは,子供が猟の犠牲になってもそばを離れようとせず,母子ともに捕獲されることが多かった。露米会社に使役されたアリュート族やコディアック族が,ラッコ猟にきわめて巧みだったことも,ラッコの急速な減少を招いた。アメリカ船が広州へ持ち込むラッコ毛皮は,1820年に4000枚,31年には750枚に激減する。資源の枯渇と毛皮価格の上昇のため,交易に参加できるのは資本力と経験のある2,3の会社に限定されるようになり,すでに1807年にはボストンのパーキンス社Thomas S. Perkins & Companyがアメリカによる交易を支配するようになっていた。
木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.127-128
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