カナダ誕生を急がせたもう1つの要因は,アメリカによるアラスカ購入だった。1867年3月30日,ワシントンの国務省でアメリカ国務長官シュワードとロシアの在ワシントン行使ドゥ・ストッケルとが,720万ドルでのアラスカ委譲に関する露米条約を締結する(Farrar, 1966, p.53)。売却を持ちかけたのはアメリカではなくロシア側だった。ラッコが絶滅に瀕したアラスカは,「吸い尽くされたオレンジのような」無用の長物と化していた(Gibson, 1987, pp.271-294)。露米会社も,政府から多額の助成金を受けてもなお60年代半ばには1000万ルーブル以上の負債を抱え,株価も急落していた。ロシアはクリミア戦争敗北の屈辱に加え,イギリスがアヘン戦争,南京条約,香港割譲で中国市場さえ奪取することを恐れていた。皇帝アレクサンドル2世の実弟で,帝国膨張論の主導者コンスタンチン大公でさえ,アラスカを捨ててでもアムール川流域と沿岸州に,太平洋帝国の全力を傾注すべきと唱えるようになる。アラスカをアメリカ領にすれば,南北をアメリカ領に挟まれた形となるカナダは早晩アメリカに併合され,ロシアは高慢なイギリスの鼻をあかすことができるはずだった。イギリスとカナダが大陸横断版図の確立を急いだのは当然だったろう。
木村和男 (2004). 毛皮交易が創る世界:ハドソン湾からユーラシアへ 岩波書店 pp.210-211
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