聖典の解釈に客観性を持ってきた宗教は科学的に見える。少なくとも理論的には見える。最近私の知人が「イスラム教はとっても科学的だ」と言ってきたので,非常に驚いた。証人たちも「組織の真理は科学的だ」と同じことを言う。イスラム教の何が科学的なのか聞いてみたら,「答えは明確に全てコーランに書いてあるからだ」と言う。でもその本にそう書いてあるから,というのは科学的な根拠でもなんでもない。ただそう書いてあるだけで神聖さの証にはならない。
しかし,人間は根拠のないことでも分厚い本に書かれると,「根拠があるに違いない」という錯覚を持つ。私の本だってペラペラのものよりは,辞書のように分厚い方が信憑性が増すだろう。多くのビジネスマンが投資とかで詐欺にやられるのも同じ理由だ。紙一枚だと信じなかっただろうが,分厚い決算書やアナリストのレポートを渡されると信憑性が増す。みんなが揃って分厚い資料にダマサれたのはエンロンやサブプライム問題が表している。
「地底世界を発見した」「UFOに拉致された」「悪霊に襲われた」「金星からやってきた」。どんなに突拍子もない発言もその人にとっては真実である。聖書が正しいと信じればその世界をその色眼鏡で見る。すべての主観による世界観でしかない。エネルギーは意識を傾けたところに集中して実体化する。だからサタンを信じれば,サタンのような現実が実体化する。少なくとも信じている者には,体験がリアルとなる。
佐藤典雅 (2013). ドアの向こうのカルト:九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録 河出書房新社 pp.255-256
PR