そもそも中世社会には武家法や公家法・本所法といった公権力が定める法が存在したが,その一方でそれらとは別次元で村落や地域社会や職人集団内で通用する「傍例」や「先例」「世間の習い」とよばれるような法慣習がより広い裾野をもって存在していた。しかも,それらの法慣習には互いに相反する内容が複数並存していることも珍しいことではなく,人々は訴訟になると,そのなかからみずからに都合のよい法理を持ち出して,自分の正当性を主張し,「〜と号する」のを常としていた「〜と号する」というのは中世人が主観的な正当性を主張しているとされるときの常套的表現)。現代の「法治国家」から見ればアナーキーというほかない実態であるが,そうした多元的な法慣習が,公権力の定める制定法よりもはるかに重視されていたのが,この時代の大きな特徴だったのである。言ってみれば,日本中世社会においては,「法」という名の異なる多様な価値がせめぎあいながら,さまざまな緊張と調和を織りなしていたのであり,公権力の制定法も,その「多様な価値」の1つに過ぎなかったのである。
清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.40
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