しかし,なにも類例を海外に求めるまでもなく,現にいまの日本においても「死をもって潔白を訴える」「抗議の自殺」「憤死」といった言動が子供の世界のイジメから芸能人や学者の醜聞,政治家の汚職事件にいたるまで価値を持ち続けているという深刻な現実があることを忘れてはならない。その一方で,欧米社会ではそうした傾向はみられず,むしろ逆に係争中に一方がみずから命を絶つようなことがあれば,それは敗北を認めたのと同様にみなされるとも聞く。そして,彼我の相違から,日本人はある主張の是非を判断するとき,その主張が論理的に正しいかよりも,主張者がその主張にどれだけの思いを込めているかを基準にする傾向がある,と指摘する向きもある。もとより,その背景には,一方に自死を禁じるキリスト教の規範があり,一方にはそれに類する思想がなかったことが大きな要因として考えられる。が,こと日本の場合についていえば,これまでみてきた中世以来の心性が払拭されず,その後も根強く支持され続けたという歴史的経験が決定的な意味をもったように思えてならない。もしそうだとすれば,室町社会を生きた人々の激情的な心性は,近世・近代をはさんで現代にまで,日本人の精神構造にふかい陰影を刻み込んでいたことになる。
清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.50
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