つまり,ここから,室町幕府には,流人を「公界往来人」,すなわち室町殿との主従関係(保護ー託身関係)が切断された者とみて,そうしたものは殺害しても構わないとする認識があったことがうかがえる。これもまさに,同時代の落武者狩りや没落屋形への財産掠奪と同様,「法外人(outlaw)」や「フォーゲル・フライ」の論理だろう。だとすれば,これまでみてきたように流人がいとも簡単に敵人によって殺害されてしまい,その後,その敵人の罪が問題とされないのも,すべて納得がいく。つまり,法の保護を失った人間に対して「殺害」「刃傷」「恥辱」「横難」,そのほかいかなる危害を加えようと,それはなんの問題にもならない。この原則があったからこそ,流人は次々と「配所」や「配所下向の路地」で敵人によって殺害されていたのだろう。いってみれば,室町幕府の流罪とは,罪人の追放や拘束に意味があったのではなく,なによりも彼らを法の保護の埒外に置くことに最大の意味があったのである。もちろん,自力救済を基本とする中世社会にあっては,それは多くの場合,即「死」を意味した。
清水克行 (2006). 喧嘩両成敗の誕生 講談社 pp.99-100
PR