もう1つ,催眠に関してよくある誤解に,施術者は本物の幻覚を引き起こせるというものがある。
だが,私自身が行った未発表の実験では,それを否定する結果が出た。まず,被験者を深い催眠に導いた後,ありもしない花瓶を手渡す仕草をする。そして,テーブルの上の,やはり架空の花を花瓶に1本ずつ生けながら花の色を言ってほしい,と頼む。被験者にとってこれは造作ない。役を演じることで対応できるからだ。ところが,ありもしない本を手渡し,それを両手に持って1ページ目を開き,中身を読んでほしいと頼んだ場合は話が全く違う。普通の人間は,どんなに想像力をたくましくしても,この課題を演技でこなせるものではない。被験者は,本を手に持つ動作はたやすくできても,いかにもありそうな冒頭の決まり文句や,場合によっては1文を,つかえながら口にする者もいるだろう。だがその後は,文字がかすれている,難しくて読めない,などといった言い訳を並べる。紙に描かれた(ありもしない)絵を見せて,何が描かれているか説明してほしい,頼んだ場合も同じだ。被験者はまったく何も説明できないか,何か言えたとしても,口ごもりながらごく短い言葉で答えるのがやっとだ。これが本物の幻視だったら,被験者は全体にくまなく目を走らせて,難なく細かい描写をしてみせるだろう。統合失調症の患者が自分の幻視を説明するときは,実際にそうする。
ジュリアン・ジェインズ 柴田裕之(訳) (2005). 神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡 紀伊国屋書店 p.472-473
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