オスマン帝国の過去が,誤ってトルコの国,オスマン・トルコの歴史とされてきたことは,2つの大きな問題を引き起こした。
1つは,現在のトルコ共和国以外の国々で,オスマン帝国時代が正当に扱われなくなったという問題である。前述のように,バルカン諸国や中東諸国で,オスマン帝国時代はあたかもトルコ人による暗黒の占領時代とされ,それぞれの地域が歩んだ近世の「歴史」が各国の民族主義鼓舞の道具として利用された。
第2は,「何人の国でもない」オスマン帝国のシステムが十分に理解されず,ましてや,多くの民族を内包する社会が,さまざまな要因で時代と共に移り変わってゆくダイナミズムが無視された点である。その結果,ヨーロッパにとってオスマン帝国がもっとも脅威だった16世紀の像が,「トルコ人の脅威」の名のもとに固定的に想起され,かつてはすばらしかった(強かった)オスマン帝国が(あるいは,イスラム文明が),長い凋落の歴史を経て,西欧諸国家の(あるいは西欧文明の)軍門に降ったというタイプの,西欧中心的な歴史の理解を助長した。その実,オスマン帝国は,14世紀から18世紀の末の間にも変化を繰り返し,そして,近代オスマン帝国も19世紀を通じて,依然,広大な領土を領有する大国として,ヨーロッパの政治の一翼を担っていたのである。
林佳世子 (2008). オスマン帝国500年の平和 講談社 pp.18-19
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