いつの時代にも若者を語る定番の話法が,1990年代以降にも同じように繰り返されてきた。まずはそのようにいっておくことができる。しかしそれ以前と違う点もある。大きな違いの1つは,1990年代以降に広まったコミュニケーションの希薄化という語りが,それに匹敵する肯定的な点の語りを欠いていたことだ。先ほど触れた中野の「カプセル人間」であれば,ある種希薄にも見える人間関係が,情報の高度な取捨選択,自分自身の趣味や好みによる加工,などといった情報処理に関する肯定的な特性とセットになっていた。同じ時期に一世を風靡した「モラトリアム人間」(小此木啓吾)にしても,批判的な語り口をともないつつも,消費社会化していく当時の社会に対するある種の適応形態として肯定的にも語られていたのである。1990年代以降のコミュニケーション希薄化論は,しかし,そのような肯定的な面への着目を欠いていた点で,それ以前のものとは大きく異なっていた。
浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.145
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