整理していえば,多重人格のストーリーを受け入れていく人々の様子は,それの持つ悲劇性を脱色した上で,まるでそれを自分たちの生活と地続きの事態であると考えているようであったということだ。では彼らは多重人格のどこを見て自分たちがその延長線上にあると感じたのだろうか。学生たちの感想から読み取れたのは,多重人格が場面によってまったく異なる顔を見せるというその点において自分の振る舞い方と親近性があるということであった。
多重人格の場合,場面と場面とをつなぐ記憶の糸が切断されているため,振る舞い方が一貫せず,しばしば致命的なまでにちぐはぐとなる(そしてその結果が「発見」されもする)。学生たちの場合,そのような記憶の断片化が生じているわけではもちろんないだろうが,それでも自分たちの振る舞いをあたかも多重人格の場合のそれと同じであるかのように感じていたのである。これはどういうことであろうか。
多重人格を自分たちに近しいものと思う感覚。その背景には,多重人格的と表現したくなるような対人関係のある様相の広がりがあったのではないか,というのがここで提起してみたい仮説である。
浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.165-166
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