その意味では多重人格といい解離性同一性障害といい,いずれも何かをわかりやすく,かつ生き生きと伝えるために用いられた比喩であるといえる。社会を語るための比喩として病が用いられることは珍しいことではない。例えばある時期,分裂病(現在の統合失調症)が占めていた時代の象徴としての座に1990年代以降,多重人格が座るようになったということができるかもしれない。実際,大澤真幸はきわめて率直にこのことを表現している。すなわちかつて「分裂病」として語られていたことから思弁的で神秘的な衣をはぎとって即物化したものが多重人格なのである,と(大澤・斎藤[2003])。
それに付け加えていうなら,分裂病の比喩を用いながら時代や社会を語っていたのはいわゆる「知識人」であったが,多重人格は一般の人々が自分たちの振る舞い方や関係のあり方を語る際に動員されることであるという点でも後者はより一般化,「通俗化」されていたといえるかもしれない。それは研究者やジャーナリストが社会を観察する際に用いるものというよりは,観察されている人々が自分たちで使用している語りの道具なのである。
浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.166-167
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