このような変化の上に,さらに若者の振る舞い方の文脈ごとの変化が重なり合う。このことは若者が何者であるのかについての見通しをさらに不透明にするであろう。そもそもどのような文脈を持っているのかという点で若者は一様ではない上に,文脈ごとの使い分けがどのように行なわれているのかについてもまた一様ではないからだ。若者とは誰のことか,という問いはここでもまた決定的に不十分なのである。
しかし大人たちはしばしばこの問いの不十分さを認識するかわりに,過去の残像を参照しながら多元性をアイデンティティの喪失として理解しようとしてきた。このような理解は二重の意味で誤っている。第1に,そこで失われたものとしてしばしば参照されるエリクソン的な意味で統合されたアイデンティティは過去にも存在していなかった。それは,何かが失われたという現在の痛切な実感が過去に向けて当社したある種の理想=仮想にすぎない。実際に失われたのは,文脈ごとの振る舞い方の違いを総体として見通し得るような「場」なのである。第2に,多元性とは統合の「喪失」なのではなく,統合がそうであったのと同じ程度には,現実の社会への積極的な適応形態であることを彼らは見落としている。もちろん多元化した自己のあり方についていろいろな問題点を指摘することはできるだろう。それは本章で見てきた通りだ。だが「場」に包摂されたアイデンティティ,あるいはエリクソン型のアイデンティティについても同じように問題点を指摘することはできる。要するにいくつかの問題を抱えながらも現在の社会に適応するための自己の様式であるという点でそれらは等価であるということだ。
浅野智彦 (2013). 「若者」とは誰か:アイデンティティの30年 河出書房新社 pp.221-222
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