三次志向意識水準まで発達すると,「神は私たちに正しくあれと望んでいる」という表現になる。これが個人レベルの信仰である。そこへ別の誰かを引きこもうと思ったら,相手の心理的な立場を意識して「神は私たちに正しくあれと望んでおられるのですよ」と語りかけなくてはならない。こうして四次志向意識水準に達したところで,宗教は社会的なものになる。ただこの段階では,相手はこちらの主張を聞きおけばよいだけで,それ以上のことは求められない。五次志向意識水準,つまり「神は私たちに正しくあれと望んでおられるのを,私たちは承知しているはずです」となると,相手がイエスと答えれば,すなわち信念を共有していることになる。ここではじめて宗教は共有されるのだ。相手も自分も神聖な力の存在を信じ,それにしたがって(強制されて)一定の行動をとるようになる。
宗教を共有するには五次志向意識水準までが不可欠なのだが,ほとんどの人にとって志向意識水準はそこまでが限界である。これもまた偶然ではない。人間の営みは,道具づくりにしても,複雑にからみあった社会で地雷を避けながら渡り歩くにしても,だいたいが二次か三次の志向意識水準までで片がつく。さらに二段階上までの志向意識水準を編み出すのは,並たいていの知的労力ではなかっただろう。進化はむだを嫌う。だから私たちに備わっているものには,かならずれっきとした存在理由がある。高度な志向意識水準を私たちが持っている理由として考えられるのは,いまのところ宗教しかない。そう考えると,信仰心の芽ばえについても答えが見えてくる。
ロビン・ダンバー 藤井留美(訳) (2011). 友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学 インターシフト pp.
PR