ビクトリア朝初期の人々は,急速な都市化や工業化や市場経済の台頭に不安を感じ,犯罪と堕落と数について研究する私的な統計協会を立ち上げた。スコットランド兵士の胸囲や,馬に蹴られて死んだプロシア将校の数,コレラで命を落とした人の数などなど,統計を集めるのは簡単で,女にもできる仕事だった。数学を使って統計を分析することは,必要でもなければ期待もされていなかった。統計を集める政府官僚のほとんどが,数学の知識もなく,数学に敵意すら抱いていたが,そんなことはどうでもよかった。事実,それも純粋な事実こそが時代の流行だったのだ。
確率を使って我々の知識がどれくらい足りないかを数値で表すという着想は消え,ベイズやプライスやラプラスが展開した原因の探求もどこかに失せた。ある通信社は1861年に,病院の改革に乗り出したフローレンス・ナイチンゲールに次のように警告している。「ここで今ひとたび,因果関係と統計を混同しないようご忠告申し上げねばなるまい……統計学者は因果関係とは何の関わりもない」
「主観的な」という言葉も不適切とされるようになった。フランス革命とその余波は,合理的な人々はみな信念を同じくするという思想を打ち砕き,西欧社会は,科学をまったく受け入れないロマン派と,数の客観性——数でありさえすれば,ナイフで刺した数でも,ある特定の年齢で結婚した人の数でも何でもよかった——の虜になって自然科学に確かさを求める人々の二手に分かれた。
シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.77-78
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