かくして確率を巡る数学の研究は先細りとなった。ラプラスは死後二世代も経たぬうちに,おもに天文学の業績で記憶されるようになり,1850年には,パリのどこの書店に行っても確率に関するラプラスの分厚い著書は見あたらなくなっていた。物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェルは,ラプラスではなく数学者で社会学者でもあったベルギー人のアドルフ・ケトレー[近代統計学の祖の一人とされる]から確率を学び,頻度に基づくその手法を統計力学や気体運動理論に取り入れた。彼らは確率と名のつくものをなかなか取り入れようとしなかった。一方アメリカの論理学者で哲学者でもあったチャールズ・サンダーズ・パースは,1870年代後半から1880年代初頭にかけて,頻度に基づく確率論を売り込んだ。スコットランドの数学者ジョージ・クリスタルは,1891年にラプラスの方法論の死亡記事をまとめ,「逆確率の法則は……死んだ。これらの法則は人目のつかないところにきちんと埋葬されるべきものであって,そのミイラを教科書や試験用紙に残すべきではない。……偉大なる人々の無分別は,そっと忘却にゆだねるべきなのだ」と記した。
ベイズの法則は,三度息絶えるに任された。最初はベイズ本人が棚上げし,次にプライスの手で蘇ったものの育児放棄によってすぐに命を落とし,そして今度は理論家達によって埋葬されたのである。
シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.81-82
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