このような機密扱いは,チューリングに破滅的な影響を及ぼした。終戦当時チューリングは「脳を作りたい」といっていた。そしてそのためにケンブリッジ大学の講師の職を退け,ロンドンの国立物理学研究所に入った。公職守秘法の縛りが災いして,当時のチューリングはいわば無名の存在だった。もしも爵位を得るなどして顕彰されていれば,支援スタッフとして割り当てられたたった2人の技師の数をさらに増やすにしても,はるかに楽だったはずだ。ところがこの研究所の所長だったチャールズ・ガルトン・ダーウィン——あのチャールズ・ダーウィンの孫——は,チューリングの業績をまったく知らず,そのためチューリングが前日遅くまで仕事をしていて遅刻をするたびに,叱責を繰り返した。ある日の午後,ダーウィンも参加していた会議がひどく長引くと,チューリングは5時半ぴったりに立ち上がり,「時間通りに」帰ります,とダーウィンに告げたという。
チューリングは1945年にこの研究所で,世界初の暗号解読用のかなり完成度の高いプログラム内蔵型デジタル電気計算機を設計した。ところがダーウィンは野心的すぎるといってこれを非難し,うんざりしたチューリングはその数年後に研究所をやめた。1950年にようやく研究所がチューリングの設計に基づくコンピュータを作ったところ,その早さは世界一で,なんとまあ,メモリー容量は30年後に作られた初期マッキントッシュの機械と同じだったという。
シャロン・バーチュ・マグレイン 冨永星(訳) (2013). 異端の統計学 ベイズ 草思社 pp.162-163
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