生物を認識する能力についても同じことが言える。周囲にいる生物を認識することは,自分が何者で,どこにいて,周囲の世界はどんな世界なのかを認識することなのだ。生物を認識する能力を奪われると——顔を認識する能力を失った人がそうなったように——自分が見知らぬ人間になってしまう。そうなると世界は,自分の居場所があるなじみ深い世界から,奇妙で超現実的な世界へと変貌する。そして,中には,人生が味気ない惨めなものになってしまう人もいる。例えばバードウォッチングが趣味だったある人は,かつては鳥たちのさまざまな羽や姿を楽しんだが,いまではどれも同じに見える,と嘆いた。
これが,わたしたちが生物を分類する理由であり,分類学が誕生した理由である。さらに重要なこととして,いま述べてきたことから,わたしたちが生物を分類・認識・命名するためだけでなく,この世界に碇を下ろすために,何が必要なのかがわかる。それは,環世界センスである。わたしたちは現実世界の重要な要素を知り——石と食べ物を区別して——生き延びるためだけでなく,種として繁栄するためにも,環世界センスを必要としているのだ。環世界にしっかりと碇を下ろすことは,この世界に足を踏み出していくために不可欠なことであり,ゆえに,赤ん坊は,止めようがないほど熱心に,環世界センスを体感しようとするのである。
キャロル・キサク・ヨーン 三中信宏・野中香方子(訳) (2013). 自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか NTT出版 pp.188
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