昭和31年に相場均氏が長年の米・独留学を終えて帰朝した。特に氏のクレッチメル教授のもとでの研究業績は注目に値する。昭和31年4月より非常勤講師として授業をもたれた。この時期(昭和32年)に京都大学より矢田部達郎教授を迎え,教育学部と大学院の心理学の講義を担当され,刺激を与えた。新しい学識を得て,教室員の若手研究者は大喜びであった。しかし,翌年に急逝され残念なことであった。三島教授は昭和33年12月教育学部へ転出,主任となる。清原教授は赤松体育局長の下で教務副主任に嘱任される。戸川教授は大学の理事に就任,昭和35年に常任となる。昭和34年に小島謙四郎氏は講師,浅井氏は助教授に嘱任された。昭和35年には,新見助教授が教授になり,昭和36年に冨田正利氏が乙種非常勤講師に嘱任された。昭和36年4月において教室員は赤松教授他9名となった。ちなみに昭和36年の一文の卒業生は42名,同二文の卒業生は19名という大世帯になっていた。
(本明寛・浅井邦二記)
「早稲田大学心理学教室五十年史」編集委員会 (1981). 早稲田大学心理学教室五十年史 早稲田大学出版部 pp.22
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