注意しなければならないのは,物語における記憶喪失が当初から読者=観客に対して「記憶喪失は治るものだ」という期待を持たせることである。しかも逆行性健忘を題材とした多くの物語では,過去の記憶は何らかの出来事をきっかけに一瞬にして回復する。しかし医学的な症例としての健忘では,そのようなケースは稀であることがわかる。
すなわち表象としての記憶喪失と現実の健忘の違いは,どのようにして記憶を失うかということよりも,むしろどのようにして記憶が回復されるかという点にある。現実の世界では,記憶は回復するとしても,その過程は緩慢で時間がかかったり不完全であったりする。というよりも精神的な障害の多くがそうであるように,健忘についても回復の過程は千差万別で,そう簡単に類型化できないのだろう。少なくとも何かの拍子にパッと記憶が戻るというのは,ど忘れや一過性の健忘の場合はともかくとして,より深刻な症状については虚構の世界の出来事であると考えた方がよい。
小田中章浩 (2013). フィクションの中の記憶喪失 世界思想社 pp.162-163
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