ダーウィンは,遺伝子という必須不可欠な考え方にはまったく思い至らなかったが,メンデルの概念が登場して,遺伝を数学的に了解(して,遺伝的性質を混合するというダーウィンのうんざりするような問題を解決)するためにピッタリな構造を提供してくれた。そうして,DNAが遺伝子の実際の物理的基体であることが分かったとき,はじめは,メンデルの遺伝子がDNAの特定の塊と単純に<同一視>できるかに見えた(いまなお多くの関係者にはそう見えている)のだが,その後,複雑な事態が出現し始めた。科学者がDNAの現実の分子生物学や,複製におけるDNAの役割を学べば学ぶほど,メンデルのストーリーは,どんなに良く見ても,とてつもない単純化のし過ぎだということがますますはっきりするからだ。最近になって分かったことだが,メンデル流の遺伝子など実際にはどこにも<存在しない>のだ,とまで言い出す人も出てくるだろう。メンデルの梯子を登ってしまったら,もうそんなものは,お払い箱にしたらよい。とは言え,今なお何百もの科学的,医学的コンテクストのなかで日々底力を発揮しているのだから,こんなに価値ある道具を投げ捨てたいとおもう人などいるはずはない。解決法は,メンデルを一段上にあげて,メンデルもまたダーウィン同様遺伝的形質についての<抽象的な>真理を捉えたのだと宣言することである。
ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.80
PR