たとえば,ジョン・ディーンの研究をおこなったアルリック・ナイサーは,スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故の翌朝,エモリー大学の学生たちに,そのニュースを最初にどのように知ったかを尋ねた。すると学生は全員,自分の経験をはっきりと説明した。それからおよそ3年後,大学に残っていた44人の学生に,再びそのときの経験を思い出してもらった。
すると,誰一人として完全に正しくは説明できず,およそ4分の1の人は完全に間違っていた。ニュースを聞いたときの行動は成り行き任せのものでなくなり,バートレットなら予想したであろうとおり,誰かに話して聞かせることを前提とした,もっとドラマチックで型どおりのものに変わっていた。たとえば,カフェテリアで友人とおしゃべりをしていてそのニュースを聞いたある被験者は,のちの報告では,「女の子がこっちに向かってホールを走りながら,『スペースシャトルが爆発した』と叫んだ」と語った。宗教学のクラスで何人ものクラスメイトからそのニュースを聞いた別の学生は,のちの報告では,「寮の新入生部屋でルームメイトと座ってテレビを見ていた。するとニュース速報が流れて,2人とも大きなショックを受けた」と回想した。
このように記憶が歪められたことよりもさらに注目すべきなのが,自分が最初に説明した内容を聞かされたときの学生たちの反応である。多くの学生は,のちの記憶のほうが正確だと言い張ったのだ。以前に自分でその場面を描写した文章は,筆跡が自分のものであるにもかかわらず,受け入れようとしなかった。ある学生は,「確かに私の筆跡ですが,やっぱり違うふうに記憶しています!」と言ったという。
これらの実例や研究結果がすべて奇妙な統計的偶然でもない限り,わたしたちは自分自身の記憶を,とくに他人の記憶と食い違っている場合には,考えなおさなければならないことになる。はたして人間は,「しょっちゅう間違っていながらも,けっして疑わない」のだろうか?記憶が鮮明に思えるときでも,少し疑ってかかれば得るところがあるかもしれない。
レナード・ムロディナウ 水谷淳(訳) (2013). しらずしらず:あなたの9割を支配する「無意識」を科学する ダイヤモンド社 pp.98-99.
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