思いだしていただきたいが,ニーチェはこう考えていた。もしテープをリプレイしつづけたら,ものごとは何度も何度もそっくり繰り返し起こるという考えほど恐ろしく,世界破滅的なものはない。この永遠回帰(永久反復)こそ,かつてないほど病的な観念だ。ニーチェは,この恐ろしい真実に対して「然り!」と言えるように人々に教えるのが自分の仕事だと考えていた。一方グールドは,人々がこの観念の否定に,つまりはテープをリプレイしつづけても,反復は<けっして>起こらないという事実に直面したら,彼らの恐怖をやわらげてやらねばと考えているのだ。どちらの命題も同じように信じがたいものなのか。より悪いのはどっちだろう。ものごとは何度も何度も繰り返し起こるのか,それともものごとは二度と再び起こらないのか。まあ,ティンカーなら,こう言うところだろう。「どっちにしても,否定はできない。また事実,真相は両方のミックスにあるのだ。つまり,僕のチームメイトのチャンスとエヴァースにひっかけていえば,少しの偶然(チャンス)と少しの繰り返し(エヴァー)のミックスにね。好き嫌いはともかく,これがダーウィンの危険な思想なのさ。」
ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.412
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