私たちは,しばしば文化的革新を,遺伝的革新と混同する誤りをおかす。たとえば,ここ2,3世紀の人間の平均身長が急上昇していることを誰もが知っている。(ボストン港にある19世紀初頭の軍船オールドアイアンサイズのような近代史の遺物を訪れると,甲板の下の空間が,私たちの祖先はほんとうは小人の家系であったのではと思うほど,奇妙に窮屈であるのに気づく。)身長の急激な変化のうちのどの程度が,私たちの種の遺伝的な変化だろうか。多少はあったとしても決して大きくない。1797年にオールドアイアンサイズが進水してから今日まで,,ホモ・サピエンスはたったの10世代しか経過していないのだから,たとえ背の高い人に有利な淘汰圧(はたしてこんな証拠はあがっているのか?)が強く働いたといても,これほどの効果をもたらす時間はないのである。劇的な変化があったのは人間の健康と食事と生活状況で,これらは表現型のうえでの劇的な変化であり,学校教育や新型の農場経営法や公衆衛生対策などの文化的伝達を通した文化的刷新に100%依存している。「遺伝的決定性」を気にしている者は,プラトン時代の人間と今日の人間において識別できる実質上すべての違い(肉体的素質,性癖,態度,将来展望)は,その時代から今日までは200世代と経過していないため,文化的変化に依存しているに違いないと気づくべきである。
ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.448
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