しかし時には,ワインの評判は単に比較の問題だった。18世紀のあいだ,ワインが健康な飲み物と思われたのは,少なくとも,それがジンではなかったからである。ジンは18世紀の前半,凄まじい勢いで大流行した。1726年,ロンドンにはジンを売る場所が6287あった。そのジンの多くは,テレピンと硫酸で荒々しい味になっていた。ワインに混ぜ物をするのが当たり前のことになっていたとすれば,蒸留酒に混ぜ物をするのは,さらに当たり前のことだった。蒸留酒の歴史においては,混ぜ物工作は原則であって例外ではなかった。蒸留酒の業界には,希釈する者,「人工的修正人」,「混ぜ物屋」が満ちていた。彼らは蕪でブランデーを造ったり,緑礬で蒸留酒を「改良」したりした。ジンが大流行していたとき,貧しい人々が1杯1ペニーの安いジンを渇望していたので,蒸留酒製造業者は,合法的な業者であれ闇市の業者であれ,手に入るどんな穀物でも調味料でも使って「ジン」を造り上げた。ワインが有毒だったのは時たまにすぎなかった。しかしジンは純粋であっても一種の毒——ジン反対運動家はジンを「母親の破滅」と呼んだ——で,それは母乳を通して赤ん坊の飲む乳に入ったり,女を堕落させ男を狂わせたりした。1736年,英国政府はジン条例によってジンを禁止しようとさえしたが,成功はしなかった。
ビー・ウィルソン 高儀 進(訳) (2009). 食品偽装の歴史 白水社 pp.81-82
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