個人や(女性たちとかアジア系の人たちとかいった)個人のタイプやグループなどについて知りうる事実が,とっくその人たちを眺めたり扱ったりする仕方に深い影響を及ぼすことがあるというのは,まぎれもない事実である。もしも私が,サムには精神分裂病や,重症の発達遅滞や,めまいと周期的視覚喪失などがあることを知ったら,サムをスクールバスの運転手に雇ったりはしないだろう。私たちが個人についての特殊な事実から個人の集団の概括化ということに向き直ったら,事情はもっと複雑になる。男女の寿命の違いについての保険統計上の事実に対する,保険会社の公正かつ妥当な反応というのは,どんなものなのだろうか。男女それぞれの違いに応じて掛け金を調整するのが正しいのだろうか。それとも,掛け金ということでは男女一律に扱っておいて,給付金の受け取り率の方で差をつけるのが正しいとすべきなのだろうか。(喫煙者対非喫煙者などといった)任意に得られる違いについては,喫煙者にはその習慣に対して掛け金を高く払わせるのが公平だと思われるが,人々がたまたまそれを持ちあわせて生まれついた違いについては,どうなのだろう。アフリカ系アメリカ人は,1つの集団としてみると,高血圧に異常にかかりやすく,スペイン系アメリカ人の間では,糖尿病にかかる率が平均を上まわっており,白人は皮膚ガンや嚢胞性繊維症にかかりやすい(Diamond, 1991)。こうした違いは,彼らの健康保険の計算に反映されるべきなのだろうか。成長期に<両親>がタバコを吸っていた人たちは,自分は何も悪くないのに呼吸器系の疾患にかかりやすい。青年男子は,集団としてみると,青年女子より安全運転を守らない。こうした事実のうち,どれが,どれだけ,またどうして重視されるのか。私たちが統計的動向を扱うのではなく,かえって1人ひとりの個人を扱うときにも,ジレンマはどっさりある。雇用者--やその他の人たち--には,はたしてあなたに,結婚歴や,前科や,安全運転記録や,スキューバ・ダイビング歴などがあるかどうかなど,知る資格があるのだろうか。ある人の学校の成績を公開することと,その人のIQの高さを公開することとの間には,何か原理上の違いがあるのだろうか。
ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.645-646
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