人間の文化,それもとりわけ宗教は,「黄金律」,「十戒」,ギリシャ人たちの「汝自身を知れ」などから,ありとあらゆる形での特異的な命令,禁止,タブー,儀礼などまでを擁した,倫理的訓戒の貯蔵庫である。プラトン以来,哲学者たちはこうした命令のかずかずを,理性によって擁護することのできる,普遍的で単一の倫理学体系にまでまとめあげようとしてきたが,コンセンサスが得られるような体系は,まだ何も得られていない。数学や物理学は,どこに行こうと,誰にとっても同じなのに,倫理学はまだ,同じような反照的均衡にはおさまっていないのである。なぜだろう。目標自体が間違っているのだろうか。徳性というのは,個人的趣味(や政治的権力)の問題に過ぎないのだろうか。倫理的真理というのは,発見することも確証することもできないようなものなのだろうか。この世には,不可避の一手もなければ,「妙技」というものもないというのだろうか。倫理学理論のさまざまな殿堂が,合理的探求の最良の方法によって,これまで何度建てられ,批判され,擁護され,改造され,拡張されてきたかもしれないのに,しかも人間的推理のこうした所産のうちには,文化の最も堂々たる産物のいくつかが見られるというのに,それらを入念に研究した者たち全員の同意を静かにとりつけているものは,まだ何もないのである。
ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.664-665
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