久保は帰国した翌年の1917年,児童文学者・巌谷小波の紹介で,東京・目黒権之助坂にある児童教養研究所に迎えられて知能部門の主任に就任し,職業選択の相談員を務めながら毎週日曜日には講演を行った。児童心理と職業選択とは一見結びつきにくいが,第一次世界大戦後の経済不況で労働者の生活が疲弊する中,家計を支える少年たちが増加していたことが背景にあった。
このとき,久保がとくに力を注いだのが,フランスからアメリカに導入されて以来大流行していたビネー知能検査の標準化である。久保が刊行した「児童研究所紀要」には,ビネー知能検査で使用されているアメリカでの事例や図版を,文化も風習も違う日本人向けにどのように改訂するか苦心していた様子がうかがえる。ビネー知能検査はその後,鈴木治太郎や田中寛一ら日本の心理学者たちによって改訂が行われ,学業不振の子どもを選り分ける特別学級制度の設置などに利用されていく。
最相葉月 (2014). セラピスト 新潮社 pp.83
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