70年代半ばから80年代は,戦後の文部省が単に量的拡大を図る事業メンテナンス官庁からふたたび政策官庁をめざす時期だったと言っていい。先に動きを見せたのは高等教育サイドだった。60年代後半に燃え上がった大学紛争の教訓を生かし,「開かれた大学」「柔軟な教育研究組織」「新しい大学の仕組み」を基本理念とする新構想大学として筑波大学(東京教育大学を73年に改組)を開設する。76年にはそれまでの各種学校のうち専門性の高いものを「専修学校」として位置づけた。さらに79年には放送大学構想を打ち出す。
また,高等教育の整備を計画的に行うために「高等教育計画」を策定する。76年には,76年度から80年度までの高等教育整備の青写真である「昭和50年代前期高等教育計画」が発表された。量的拡大だけでなく質的充実をも意識した高等教育政策の立案が試みられたのである。当時の省内,特に大学局(現・高等教育局)の空気には,これで政策官庁をめざすんだ,との意気込み,気負いが感じられた。
しかし皮肉なことに,「高等教育計画」が出たその年,それまで右肩上がりで伸びていた大学進学率が頭打ちになる。85年に進学率50%になることを前提に計画は立てられていたにもかかわらず,その年から38%前後で止まり続け,上昇に転ずるのはなんと,分母である18歳人口が急減期に入る90年代になってからであった。上昇するはずの分は,大学でなく専修学校にほうに流れた。
寺脇 研 (2013). 文部科学省:「三流官庁」の知られざる素顔 中央公論新社 pp.27-28
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