訓練をはじめてからわずか数週間で,アレックスは明らかに特定の物体を指して発声できるようになっていた。それは,私たちを模倣していたのではなく,単なるオウム返しでもなかった。このことを示す最初のできごとが7月1日にあった。それまでアレックスを観察していて,とくにフルーツなど,くちばしが汚れやすいものを食べたあとに紙でふきたがることはわかっていた。そのため,くちばしをふくための紙を欲しがる状況をつくろうとして,ときどきリンゴを与えた。いつも,アレックスは何を言っているのか聞き取れないような声で紙を要求した。しかし,この日はリンゴをあげたあとに,紙を与えることを私が忘れてしまったのだ。彼は,いつもの居場所になっていたケージのてっぺんから,「オバサン,何か忘れているだろ?どうした?」と言いたげな表情で私を見た(この表情は,その後年数を重ねるにつれてどんどん鋭くなっていくことになる)。アレックスはケージの端まで面倒くさそうに歩き,索引カードのしまってある引き出しを見下ろし,「エー・アー」と言った。いずれにしても,前のような,本当に出そうとしていたのかどうか定かでない声ではなく,はっきりとした声だった。
私は興奮をおさえながら,それが偶然に出た声でないことを確かめることにした。まず,「エー・アー」と最初に言ったことのごほうびとして,索引カードを与えた。それをアレックスはうれしそうにしばらくかじった。つぎに,私は索引カードをもう1枚取り出し「これ,何?」と聞いた。すると,アレックスはまた「エー・アー」と言った。私はまたアレックスにごほうびのカードをあげた。これを6回繰り返した。しかし,7回目にはアレックスは飽きてしまったようだ。返事をせず,彼の独特なしゃがれ声で小さく鳴きながら熱心に羽づくろいをはじめた。アレックスは,レッスンに疲れたことを伝えるのだけは最初からうまかった。
アイリーン・M・ペパーバーグ 佐柳信男(訳) (2010). アレックスと私 幻冬舎 pp.86-87
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