けれども,次のようないくつかの欠点があるかも知れない。
1.教員が自分のテーマにかかりきりになっていて,そのため,その方面に何らの関心もない学位志願者に無理強いする。かくして,学生はせっせと資料集めをして,他人にそれを解釈してもらうために働く助手と化す。彼の論文は平凡な結果に終わるだろうから,後で教員が決定的研究を仕上げる際,この収集した資料のうちいくつか断片を利用しても,その学生の名を引用することはなかろう。彼が教員に明確なアイデアをもたらしたわけではないのだから。
2.教員がいかさまで,学生たちに作業させ,学位を与えておきながら,彼らの仕事をまるで自分のものであるかのように無遠慮にも活用する。場合によっては,ほとんど善意によるいかさまのこともある。つまり,教員が情熱をこめて論文指導に当たり,多くのアイデアを示唆してやり,そしていくらか経つと,自分が示唆してやったアイデアと,学生が持ち出したアイデアとがもはや見分けられない。同じくまた,あるテーマについて激しいグループ・ディスカッションをやった後では,どれが自分の起点アイデアで,どれが他人の刺激によって獲得したものなのか,もはや想い出せなくなるものだ。
こういう欠点をどうやって回避するか?学生がある教員に接近するような場合には,すでに友人たちからその教員の噂を聞いているだろうし,以前の学位取得者たちとも接触もあったであろうし,その教員の清廉さについて見当をつけてしまっていることであろう。その教員の論著をいろいろ読んでいて,その教員が自分の協力者たちの仕事をよく引用するか否かをも承知していることだろう。残余のことに関しては,評判や信用という不確定な要素が左右するものである。
ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.55-56
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