しかしながら,本だけで,あるいは本に関してだけ,論文というものは作成できると決まっているのであろうか?すでに見てきたとおり,たとえば,迷路におけるつがいの鼠の行動を数カ月間観察したりして,野外調査を記録するような,実験に基づく論文というものもある。けれども,こういう型の論文については的確な助言を授けうる自信がない。それというのも,この場合には,方法は学問の種類によって決まるし,また,こういう研究者たちと接触があるから,本書のごときものを必要としないからだ。ただ私が知っている唯一のことは,すでに述べたとおり,こういう種類の論文でも,実験は先行の科学的文献に関しての議論の中に組み込まなければならないという点だ。したがって,この場合でもやはり,書物が話題にのぼることになる。
社会学の論文でも,学位志願者が現実の状況と長期間,接して過ごさなければならないとすれば,同じことが生ずるだろう。この場合にも,せめて,同類の研究がすでに為されていないかどうかを知るためにも,書物が必要となるだろう。
また最後に,書物についてあれこれ論ずるだけで作成されている論文もある。文学,哲学,科学史,教会法,形式論理学の論文は一般にそういうものである。イタリアの大学でも,殊に人文科学系の学部では大半がそうなっている。そのほか,北米の学生が文化人類学を研究する場合には,戸外にインディオたちがいるし,あるいは,コンゴで調査を行うための資金も見つかるものだが,それに反して,一般にイタリアの学生はフランツ・ボーアズの思想について論文を書くだけに甘んじているのが普通だ。もちろん,民俗学の立派な論文はいろいろあるし,わが国の現実を研究することによって練り上げれば,ますます立派なものとなるが,しかしこの場合でも,せめて,先行のフォークロア目録や資料的情報を調査するためにも,図書館の仕事が必ず加わってくるものだ。
いずれにしろ,いわば,本書は自明な理由から,本に関しての,かつもっぱら本を用いての,大多数の論文を問題にしている。
ウンベルト・エコ 谷口 勇(訳) (1991). 論文作法—調査・研究・執筆の技術と手順— 而立書房 pp.128-129
PR